気まぐれ日記 08年3月

08年2月はここ

3月1日(土)「猫の餌食になる食べ物とは?・・・の風さん」
 今朝、目が覚めたら、雨が降っている音が聞こえてきた。昨日は終日天気が良くて気温も高かったが、書斎の気圧計は1005hPaあたりを指していた。低気圧だった。いつ崩れるか分からない気象状況だったのだ。
 次に目が覚めたときは、外は明るく、空も晴れ渡っていた。
 階下へ降りたら、食堂で事件が起きていた。食卓の上のスイートポテトが、袋の上からシルバーに食べられていたのだ。完全に袋から出すことができず、牙が刺さって穴がたくさん開いていた。残っていた3個とも被害に遭っていたのだ。
 これで私の朝食はスイートポテトに決まった。
 半月ほど前にバレンタインのチョコをたくさんもらった。しかし、次から次へとお菓子が出てきて(?)、なかなかチョコまで手が回らなかった。昨夜は、業を煮やしたワイフが、「そろそろ食べてくれなきゃ」と言って、冷蔵庫からバレンタインの「ザッハトルテ」を出した。そう言われちゃあ、食べないわけにはいかない。ウィスキーの白角をオンザロックで飲りながら、6分の5を私が、6分の1をワイフとシルバーが食べた。美味かった〜! ……???。にゃにぃ? そうだ、昨夜、シルバーは、ワイフから「ザッハトルテ」をもらって、食べたのだ! その恩を忘れて、夜中にテーブルの上に乗って、袋入りのスィートポテトを……!
 今日は、本山キャンパスへ出かけて大野先生とゼミをやったが、Extended abstract の完成はできなかった。けっこう大変。
 帰宅したら、若桜木虔さんから本が届いた。『プロ作家養成塾 時代小説家になる秘伝』(ベスト新書)、『「速読」で頭がよくなるすごい勉強法』(青春出版社)である。どちらも読んでみたかった本だ。

3月2日(日)「学業に専念した1日・・・の風さん」
 最近、ホームページのアクセスカウンターがちっとも上昇しない。それもそうだろう。更新が途絶えがちだからだ。今は本当に目一杯である。
 今日は、朝から先ず Extended abstract のブラッシュアップに挑んだ。ある程度完成したところで、保存しておき、次に、日本経営工学会春季大会発表用のデータベース作りに取り掛かった。会社の仲間からデータをもらうための準備である。これが大体できたところで、会社のサーバーにアクセスして、メールで依頼した。もちろん読んでもらうのは、週明けになる。
 その経営工学会の春季大会の発表申込が正式に受理された。日曜日なのに、事務局から返信が届いたのだ。ごくろうさま。
 今夜は子供らがいないので、ワイフと二人で海岸に近いレストランに夕食を食べに行った。私が超多忙でなければ、映画でも観に行きたいところだが、とんでもない話だった。外食が精一杯だった。真っ暗な海岸線をミッシェルで爆走して往復した……わけないか。
 帰宅後、Extended abstract を開いて、再度手を入れてから、大野先生へメールで添削をお願いした。こちらの締め切りは7日なので、遅くとも6日にはメール送信したい。
 夜遅くなってしまった。いつものパターンである。しかし、明日から検査入院するので、どうしても最低限の準備はしておかなければならない。

3月3日(月)「鳴海風の名誉は失墜・・・の風さん」
 ひな祭りである。半六邸のひな祭りに行けば、秋月達郎さんに会えるかもしれない。しかし、今年はダメ。私は検査入院するのだ。
 実は、PSAマーカーチェックで、前立腺がんの疑いが生じてしまった。それで、生体検査を受けることになったのだ。
 昨日の昼食後に下剤を服用したら、昨夜就寝前に明瞭に効果があった。
 午前中に病院へ着いて、色々な手続きや準備を進めた。優に30年ぶりに浣腸され、止血剤の点滴を受けるところまでは、スイスイと進んだが、それからの待ち時間が長かった。ジェットコースターの嫌いな風さんは、こういった苦痛をともなう検査は苦手である。
 さんざん待たされた挙句、いよいよとなったとき、血圧が上昇し出した。検査台に乗せられた時点では、なんと200を超えてしまった(汗)。麻酔らしい麻酔はされず(リスクを最小限にするため、この病院では麻酔はほどほどにしかやらない)、はっきりした意識の中でコトは進んだ。大腸の内側から針で刺して生体を取るのである。合計10個の生体がサンプリングされ、その副産物として大腸内と尿道内に出血があった。「血圧が上がっている分、出血も多いです」ドクターの冷静なコメントが私の大脳皮質を刺激した。
「出血があっても心配ありませんから」
 別のドクターもやって来て、私を安心させてくれた……が、私は耐えることに疲れ果てていた。
 その後、微熱まで出て、夜はおむつをされたまま就寝した。
 何人の看護婦にあられもない姿を見られたことか……。

3月4日(火)「とりあえず退院・・・の風さん」
 その後の経過が落ち着いてきたので、午前中で退院できた。
 検査結果は10日ぐらい後に判明する。多分大丈夫とのこと。
 外へ出ると、春らしい陽気で、いかにも退院したぞ、という感じがした。入院していた24時間は実に長かった。
 帰りに知人の陶芸展を見学した。この陶芸展は毎年見学しているが、今年のレベルは一段と高くなった気がする。会員相互の切磋琢磨がハイレベルで継続しているのだろう。値札がついていたら、そのまま買って帰りたい作品が多かった。また、会社で仕事を一緒にしていたことのある先輩が、今回の陶芸展に、人柄のにじむ作品を出していて、とてもうれしかった。実は、偶然だが、会場で、お二人と会えたのである。陶芸展初日で、交流会があるのだという。プレゼント交換用のぐい飲みを携えていて、なかなか粋な企画だと思った。
 昼食を和食レストランで摂ったが、病院の食事とのギャップに驚いた。もっとも私は好き嫌いがないので(贅沢は言わないので)、病院では一つも残さず食べたが。
 帰宅してから、会社のサーバーに接続して会社の仕事の挽回に取り組んだ。膨大な量だった。それもそうだ。先週の金曜日から出社していないので、今日で5日目である。結局、午後7時半頃まで続けてしまった。
 夕食後、ようやく自分の仕事に取り組み始めたが、エネルギー切れである。

3月5日(水)「若大将ー! ・・・の風さん」
 会社を定時であがって、「加山雄三with大友直人 シンフォニック・コンサートツアー」を聴きに、ワイフと愛知芸術劇場コンサートホールへ行ってきた。
 16歳上の加山雄三は昨年古希を迎えた……が、若い。若大将は健在である。自分が16年後に、あのように若々しくいられるだろうか、いや無理だ(修辞法など使っている場合か)。
 今回は名フィルとの競演ということで、非常に期待して出かけた。チケットは8500円と高額だったが、全く気にしていなかった。
 開始早々、コンサートホールでのオーケストラの音の美しさに圧倒された。曲は弾厚作の作品NO.1「夜空の星」だ。
 お嬢さんのために作った「弦楽合奏の為のロンド 真悠子」では、見事な指揮者ぶりも発揮。美しい旋律だった。
 弾厚作の作ったピアノコンチェルトは、ピアニスト高橋多佳子が暗譜で演奏した。手の動きが見える最高の位置からで、いかに難しい曲かが分かった。
 もちろん加山雄三自身も「海 その愛」で、ピアノ演奏を披露してくれた。
 アンコールの1曲目では、会場に詰め掛けた観客と一緒に「旅人」の大合奏となった。

 風にふるえる 緑の草原
 たどる瞳かがやく 若き旅人よ
 おきき はるかな 空に鐘が鳴る
 遠いふるさとにいる 母の歌に似て
 ……

 観客全員で大合唱できるほど、名曲なのである。
 私は20世紀を代表する作曲家として、ビートルズ、加山雄三、井上陽水を上げたい(笑)。
 最後のアンコール曲「アメージング・グレイス」では、加山雄三はマイクなしのアカペラで、朗々と歌い上げてくれた。圧倒的な声量は、感嘆以外の何ものでもない。
 帰宅して、ワイフのリクエストで、加山雄三の歌をカセットで聴いた。
 あ、そうそう、辻真先さんから新刊『ぼくたちのアニメ史』(岩波ジュニア新書)が届いていた。辻先生は、加山雄三より少し年上である。こちらも変わらぬ創作パワーに圧倒された。

3月6日(木)「兄貴の見舞い・・・の風さん」
 昨夜、帰宅してから、秋の国際学会発表のための Extended abstract を事務局へ送信したが、午前中にその受信連絡があった。発表へ向けてまた一歩前進だ。
 今日、福島県で入院中の兄貴を見舞った。実は、昨日、腰の手術をしたのである。とっても難しい病気で、歩行が困難になってきたので、とうとう決心して手術したのである。
 兄貴は10歳上である。行ったら、ぐったりしていて元気がなかった。大部屋で周囲は老人が多く、兄貴も老人に見える。おっと、立っている俺も老人予備軍か(笑)。兄貴は、体の内部で出血しているそうで、起きられないし、食欲も全くなく……つまり、一番つらい時に見舞ってしまった。
 予定では、明後日頃から歩けるようになるらしく、そこまでいければ、精神的にもよみがえるだろう。
 それにしても、兄弟で相前後して入院するとは、不思議な因縁だ。
 
3月7日(金)「春の風物詩・・・の風さん」
 朝から本社へ直行した。すぐに営業と会議になって少し責められた。次の大きな会議に出席したが、気持ちが落ち着かなかった。終わりごろ、役員とある相談をしたが、私が約束を果たしていないことを責められた。これはまずいと判断して、製作所へ連絡し、説明資料を要求した。
 その間に、会社の同僚と、学会発表のデータについて打ち合わせた。
 説明資料が届いたので、昼休みを狙って役員が席に戻るのを待っていたら、うまい具合に会えた。早速、汚名挽回の説明を試みたが、付け焼刃の説明では目的を果たすことはできなかった。
 昼食後、しおしおと製作所へ戻った。
 予定していたことだが、対応がちょっと難しい来客があり、相手の言い分をしっかり聞いて、精一杯の対応をした。
 ここまででもかなり疲れていたのだが、すぐに製作所の総務と緊急の打ち合わせになった。部下の勤務実績の疑問点に関するものだった。気に入らなかったので、大いにぼやいた(笑)。
 定時後も難しい会議が続き、へとへとだった。
 ようやく帰宅したが、疲労と不機嫌を抱えての帰還である。
 夕食に、春の風物詩「菜の花のおひたし」が出た。美味かった。

3月8日(土)「疲労感・・・の風さん」
 今日も先週と同様に、本山でゼミ。昼に着いて、軽く昼食後、ゼミ室に入り、夕方5時まで、英語の論文の理解に励んだ……が、今日の部分は抽象的な内容ばかりで、疲れただけだった。
 帰宅しても疲労感でやる気が出なかった。
 腰の手術をした兄貴は、歩行器を使って歩く練習を始めたそうだ。良かった良かった。自分で歩けるようになれば、気分も上向きになるだろう。

3月9日(日)「今日もお疲れ様・・・の風さん」
 ほぼ正午に起床した。それだけ疲労が蓄積していたということか。
 とにかくやることをやらねば。
 確定申告である。
 毎年やっていることだが、先ずインターネットで今年の要領をチェックする。大きな変化はなさそうだ。今年もe−Taxに挑戦する気分的な余裕がないので、必要な手引書や申告書を印刷する。昨年の実績はバッチリ記録をとってある。もちろん計算も完了している。とにかく間違いなく記入していくだけだ。
 源泉徴収票の枚数はけっこうあるような気がしていたが、合計してみると意外に金額が少ない。前の年の3分の1しかなかった。うっかりすると申告不要になりかねない(実際、そういう年もある)。
 これが夕方までかかってしまって、夕食後は、宛名シール印刷に取り組んだ。今月出版される岩波科学ライブラリーの『和算小説のたのしみ』を出版社から送付してもらうためだ。めちゃくちゃ急いで作成した。60人分になった。まだ何人か忘れている気がする。
 続いて、明日の社外講義の準備だ。
 疲れた。もう寝よう。

3月10日(月)「限界・・・の風さん」
 電車で名古屋へ出かけた。会社の仕事だが、内容は講義である。行きの電車の中でも、少し勉強をした。文芸評論家の清水信先生の教えに、機会学習という言葉がある。何かの機会をとらえて勉強することだ。逆に言えば、機会がないのに勉強するのは難しい。だからこそ、良い機会があったら積極的にそのチャンスをとらえて知識を増やすことだ。
 今日はパソコン持参で、立ち上げ時間を短くするため、スタンバイ状態のままで持って行ったので、すぐに用意できた。
 3時間の講義を比較的余裕をもってこなしたが、所詮、3時間は3時間である。以前、24時間血圧を測定したとき、講義をしている時が最も血圧が上がっていた。一見くそ度胸のありそうな風さんだが、やはり人前では緊張するのだろう。相手が少なくてもこの間の精密検査では血圧がとびっきりに跳ね上がったが。
 とにかく3時間の講義で疲れた。
 昼食後、まっすぐ電車で帰宅した。
 疲労感が体にへばりついていたが、気になることが多かったので、それからミッシェルで出社した。
 出社後は超過密・超高速で仕事をこなして、8時前に何とか帰宅した。
 夕食を摂って書斎に入ったが、体がだるい。パソコン(執筆マシン)の調子までおかしい。すぐにメモリ不足になってしまう。システムの復元を試みるが、過去に戻れない。ど、どうなっているんだ?
 結局、這うようにしてベッドへ。

3月11日(火)「インフルエンザか?・・・の風さん」
 目覚めたが、体中の節々が猛烈に痛い。わたしがよくひく風邪の症状だ。しかし、ワイフは「やだー、インフルエンザよ」と主張する。
 ケータイから会社へメールで休む旨伝えた。今日は重要な会議が目白押しだったが仕方ない。私が死んでも会社は死なない。会社が死んだら我が家の生計が途絶える……なんのこっちゃ。
 熱も出てきて、ベッドの中で死んだように眠る。
 夕方、ワイフの強い勧めで、近所の病院へ。
 擬似インフルエンザだった(実際はただの風邪だろう)。
 帰宅して、夕食を摂って、薬を飲みまくってまたベッドへ。
 やることが死ぬほどあるのに、このまま死んでもやるべきことはそのままになってしまう……なんのこっちゃ。
 夜中にベッドから抜け出して、会社のサーバーにアクセスしてみる。メールチェックして、会社の一日の出来事のおおよそを把握した。やはり会社は死んではいない。安心(?)して、またベッドへ。

3月12日(水)「ようやく回復・・・の風さん」
 節々の痛みはかなりやわらいだが、まだ熱っぽい。
 会社へ電話して、今日も休むと伝えた。
 ベッドに戻るとすぐに眠ってしまう。確かに病気らしい。
 結局、夕方まで起きられなかった。
 どうにか動き回れる状態になったので、気合を入れて雑務をこなし出した。この週末は怒涛の忙しさなのだ。しっかり準備しておかなければ、貴重な時間が無駄になってしまう。
 相変わらず執筆マシンの状態がおかしい。ウィンドウズのアップデートが不十分で変調をきたしているように思うのだが、システムの復元機能が働かないので、どうにも困ったもんだ。かと言って、再セットアップをするほどの暇はない。
 岩波書店からの連絡で、岩波科学ライブラリー『和算小説のたのしみ』の発売は、今月の25日以降になるらしい。待ち遠しい。
 福島の兄貴の回復は順調で、昨日抜糸が終わり、明日にもシャワーが許可されるらしい。退院は来週の月曜日とのこと。私の精密検査の結果が出る日だ。

3月13日(木)「せっかくひらめいたのに・・・の風さん」
 朝、目が覚めたとき、なぜか学業のことを考えていた。春の学会発表へ向けて、研究内容のまとめ方がなかなか見えてこないので、深層心理の中で悶々としていたのだ。三上(鞍上、枕上、厠上)とはよく言ったもので、それが今朝の目覚めのベッドの中で、ようやくイメージが具体化されたのである。
 ただし、混沌とした内容は明確になったが、オリジナリティがまだ出てこないのだ。もう少し、悩まなければならないようだ。
 二日間おとなしくしていたので、何とか体調も戻ったような気がした。
 しかし、出社してからハリネズミのように働かなければならなかった。そして、午後からは、悩ましくて難しい会議だった。いきなりボルテージが上がってしまい、だんだん体が熱っぽくなってきた。発熱している感じがした。そして、懸案事項がすべて決着しないうちに、本社へ移動する時間になってしまった。本社でもちょっと厄介な会議があるのだ。
 本社での会議を終えて退社し、床屋へ寄った。明後日は、「元部下の結婚披露宴に出席するため、京都まで行かなければならない。病み上がりのような頭髪ではいただけない。
 ようやく帰宅したが、今朝ひらめいた学業上の課題を整理する気力はもう残っていなかった。

3月14日(金)「久々の東京雨男・・・の風さん」
 東京へ出張した。
 某社の部長さんと会ったのだが、歩くとき右足を引きずっているように見えたので、どうかしたのかと尋ねたら、昨年、腰の手術をしたのだと言う。病名を聞いて驚いた。
「それ、先週の水曜日に、私の兄が手術した病気と全く同じです!」
 珍しい病気だと思っていたが、そうではなかったのだ。
 しかし、それより気になるのは、手術は成功したが、まだリハビリ中で、元通りになっていないことだった。
 今日は、他にも数ヶ所回ったが、午後から雨がひどくなり、移動に難渋した。
 それで、夜の行動計画は中止して、早めに帰ることにした。
 やっと帰ってきたが、愛知県も雨が降っていた。
 何もできないホワイトデーだった。

3月15日(土)「鳥羽伏見の戦に思う・・・の風さん」
 昨日の雨が嘘のように上がって、晴天になった。
 会社の元部下(同士)の結婚披露宴に出席するため、京都へ出かけた。
 披露宴は午後からなので、少し早めに京都へ行き、伏見へ足を伸ばした。御香宮を訪ね、算額を観るためだ。
 近鉄の「桃山御陵前」で降りた。
 伏見城の大手門を移築したという神門をくぐって境内へ入った。真っ赤な椿が無数に咲いているのが目を刺す。その奥に「天明伏見義民顕彰碑」があった。
 石畳を少し進むと、今度は右手に桃山天満宮がある。受験生らしい若者が熱心に拝んでいた。
 本殿の右側に目指す絵馬堂があった。丹念に点検していって、ほぼ最後のあたりで、二つの算額を発見した。ほとんど読めない大きな算額と、これはもう明らかな復元算額である。デジカメでしっかり撮影した。
 本殿で賽銭を投げ、2礼2拍手1礼、無心に祈った。
 社務所で猿曳きの絵馬を土産に買った。
 境内を戻るときに、「伏見鳥羽の戦の碑」を見た。説明文を読みながら、少し憤りを覚えた。官軍と呼ばれた人々は、ここ御香宮に陣を張ったのだ。一方の幕府軍(フランス伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組)は伏見奉行所である。
 伏見城の大手門だった神門をあらためて眺めると、確かに防御という点では頼もしい構えである。しかし、恐れ多くもここは神社ではないか! 幕府軍が、神社へ向けて大砲を撃つことなどできるはずがない。
 事実、御香宮は無傷だった。
 私は、続いて、伏見奉行所跡へ足を伸ばした。
 団地の入り口の脇に、「伏見奉行所跡」と書かれた標柱が立っていた。幕府軍の無念を感じながらシャッターを切った。
 元部下の結婚披露宴は、屋外、竹林の中での人前結婚式から始まった。神主も牧師もいない結婚式である。私には初めてであり、新鮮な感じがした。
 披露宴はオーソドックスなメニューで進行し、全く奇をてらうことのない素朴さに、好感を抱いた。これこそ人生なのだ、日本人の生き方なのだと思った。
 気持ちよく酔ってしまったので、帰りにも少しだけ京都市内の取材をと思っていたが、中止して早く帰ることにした。明日もまた出かけるからだ。
 7時過ぎに帰宅できたが、疲労がかなりたまっていた。
 書斎での雑用は、またできなかった。

3月16日(日)「宝塚にコーフン・・・の風さん」
 身体は疲労していても予定した日は確実にやってくる。
 今日はワイフを宝塚観劇へ連れて行く日である(と言いながら、本人もけっこう楽しみにしていた)。そもそもだいぶ前にネットで調べたら、偶然チケットが取れたのである。観劇の日は忘れた頃にやってきた(笑)。それにしても、一昨日が東京で、昨日が京都、そして今日は大阪から兵庫へと足を伸ばすのである。ちょっと行動し過ぎかも。
 超身軽にして徒歩で最寄の駅へ。名鉄特急で名古屋へ出てから、のぞみで新大阪へ向かった。上天気である。
 せっかく宝塚へ行くので、その前に西宮に寄った。以前一度行ったことがあるのだが、写真を撮りたくて、また行くことにした。甲子園口で降りて徒歩10分。熊野神社に着いた。ここの境内に算学神社がある。『割算書』で有名な毛利重能(しげよし)がこのあたり出身なので、算学神社とその隣に毛利重能の顕彰碑があるのだ。
 天気は抜群にいいが、参拝する人はほとんどいない。デジカメでばちばち撮りまくってそこを後にした。あ、もちろん本殿でお賽銭を上げて無心で祈ってきた。二礼二拍手一礼である。
 宝塚駅を降りたのは12時半である。かなり空腹になっていた。
 石焼きビビンバの店があったので、入った。生ビールとたこ焼きも頼んだ。たこ焼きは木の皮を船型に折った器に盛ってあった。ワイフに言わせると、これが本場の出し方なのだと言う。知らなかった。たこ焼きはソース味でなく、塩が振ってあり、熱くて、とろけるような柔らかさだった。この味も初体験だった。
 石焼きビビンバを食べていると男1女2の外人が隣席に座った。若い西洋人である。崩れた英語の発音で、意味が聞き取れなかった。
 なんと石焼きビビンバを注文していた。料理が運ばれてきたが、案の定、食べ方が分からないと店の人に訴えている。しかし、店の人も英語が苦手らしい。そこで私が、店の人に「やってあげたら?」と提案した。安心した店の人は、さっそくスプーンでかき混ぜ始めたが、他の二人がボーッと見ているだけなので、いよいよ私が口出しをした。”You'd better do it before burning.” 若い男が始めた。通じたのだ。しかし、どうもモタモタしている。"Stick and stir. Scramble together." 私も手真似して見せながら言った。
 適当に単語を並べれば通じるものである。
 今回のレビューは『黎明の風ー白洲次郎の挑戦ー』だった。白洲次郎役のトップスター轟悠もマッカーサー役の大和悠河も実にカッコ良かった。しかし、それ以上に、今回のレビューはストーリーが素晴らしい。敗戦直後の日本で、GHQと堂々と渡り合った白洲次郎や、日本の独立に精魂を傾けた吉田茂の活躍を描いていたからだ。学校教育でちゃんとした歴史を教えなくなっているだけに、宝塚の挑戦に敬意を表したい。
 とは言いながら、最初はほとんど何も土産物を買おうとしなかったワイフが、帰る頃には、CDやパンフレットを買うほど興奮していた。マッカーサー役の大和悠河にのぼせてしまったらしい。
 鍛えぬいた踊りと歌はまさに美の極致。メークを落とした素顔もまた美しい。轟悠も大和悠河も素敵だった。
 帰りの新幹線でまたビールを飲みながら弁当を食べたので、酔っ払ってしまい、後は爆睡だった。
 
3月17日(月)「精密検査結果は問題なし・・・の風さん」
 今日も春らしい陽気の朝が来た。
 2週間ほど前の精密検査の結果を聞きに病院へ向かった。
 明朗な天気とは裏腹に病院は混雑していた。
 結果は予想通りに「問題なし」だった。これにより次のステップに踏み込むことを宣言した。身体に合った薬がなくて、症状を軽快させることができず、ひと思いに手術を受けようというものだ。どうせ治らないのだし、副作用の強い薬を一生飲み続けるわけにはいかない。医師から見れば「本人が強く希望」という受け取り方になるのかもしれない。しかし、精一杯の誠意で手術のリスクについて説明してくれた。さらに、実際の執刀医の診察と説明を勧められたので承知した。
 午後から本社に出て、私の学業について協力してくれている同僚とディスカッションした。貴重なデータがもらえたので、あとは、自分でそれに基づいてシミュレーションしてみることだ。
 夕方までに帰宅できた。
 今日は、せっかくの時間ができたので、気になっていることをいくつか片付けることにした。先ず最初は、新鷹会の仲間が書いた短編小説(プリントアウトしたもの)を読んで感想を伝えることだ。こういうことは真剣にやらないといけない。だから、体力が必要である。元気なうちに読んでみた。そして、気になったことなどをメモした。一番気になったのは視点の移動だった。文章のプロは、視点がぶれないように書けなくてはならない。書き込みをした原稿をスキャナーを使ってpdf化した。気になったことなどを本文に書いた電子メールにpdfを添付して送った。
 次に、自費出版のお手伝いをしている作品が、いよいよゲラの最終段階に入ったので、その校正と印刷所への送付準備。経費の記録付け。ホームページの更新である。
 それらが終わったのが午後11時頃だった。それから会社のサーバーにアクセスして、会社の仕事に取り組んだ。1日いないだけで、会社の業務にはさまざまの変化が起きている。出来る限り情報をつかんでおき、やれるだけの対応をしておかないと明日が大変である。
 結局、午前1時近くまでかかってしまった。
 ホワイトデーも過ぎてしまったが、リビングにはまだバレンタインのチョコがたくさん残っている。ワイフの提案で白角をオンザロックにして、一つ二つつまんだ。上等なチョコが時間の経過でやや劣化しているような気がした。申し訳ない。
 ベッドに横になって数秒後、爆睡モードになった。

3月18日(火)「4日遅れのホワイトデー・・・の風さん」
 やっと会社の女性にホワイトデーの贈り物をすることができた。先日京都へ行ったときに買ったちりめんの小風呂敷と、宝塚で買ったゴーフルだ。
 自宅でメールでは処理できない雑務がわんさとたまっていたので、てきぱきとこなした。
 そのかたわら、会社の同僚の体調を気遣う必要が生じた。彼は昨年腰の手術をしたのだが、完治しておらず、もしかすると別の病院で、もっと良い医者に診てもらって再手術になるかもしれない、と思われた。
 あらためて聞いたら、2週間前に手術した兄貴と同じ病名だった。ということは、先週、東京で会った知人(その人も昨年手術した)と同じ病名である。脊柱管狭窄症……なんとも難しい病名だ。病名が難しいということは、治療も難しいということなのだろう。
 多忙な同僚の業務を、職場みなで助けなければならない。

3月19日(水)「ついに英語の論文を読破・・・の風さん」
 朝から雨。天気が悪いと気分も沈みがちになる。
 本社へ直行して会議に出た。
 製作所へ戻る途中、郵便局の自動機で送金をした。
 製作所へ着いてすぐ、診療所へ向かい、血圧の経過観察を受けた。血圧は問題なく、総合病院での精密検査結果などについて医師へ報告した。
 最後に、この親切な医師が今月末で大学病院の医局へ戻ると聞かされて、ちょっとガッカリした。次の新しい医師になって、血圧が上昇することはないだろうか(笑)。
 近年、医師側のリスク回避なのか、インフォームドコンセントが徹底し過ぎていると思う。医師と患者は、本来、信頼関係で結ばれるべきではないだろうか。
 学業がピンチなので、大野先生とゼミをするため、午後、電車で名古屋へ向かった。昨日は朝から超高速で会社の仕事に取り組んだので、今日はこうして学業にも時間が割ける。
 電車と地下鉄を乗り継いで、本山へ着いた。雨に濡れたキャンパスも風情があるな。
 年初から取り組んでいた英語の論文をついに今夜で読み終えた。分量が多くて訳すのに時間がかかったが、内容的には、実に示唆に富んだもので、私の学業に多大な影響を与えている。
 9時前に帰宅できた。

3月20日(木)「春分の日も仕事、学業・・・の風さん」
 今日は春分の日。
 世の中は休みでも、自動車業界は勤務日である。
 比較的空いた道路を、ミッシェルのアクセルを踏み込みながらすいすいと走り抜けていく。仕事もその調子ですいすいと片付いていけば良いのだが、そうは簡単に問屋は卸さない。しかし、無心で取り組んでいれば、会社の仕事というものは、それなりの速度で進展していくものだ。
 退社したのは7時で、帰りにミッシェルに給油した。明日はミッシェルで名古屋まで行かねばならない。
 夜は書斎で学業に取り組んだ。
 どうも最近は作家業がおろそかになっている気がする。それで、就寝前に少し読書をして、帳尻を合わせようとした(笑)。

3月21日(金)「今夜も本山でゼミ・・・の風さん」
 最近、毎日きちんと7時頃に目が覚めて起床している。
 カーテンを開けると、庭の木蓮が無数の白い花を咲かせていた。こういった季節に、当地へ越してきたのだ。早いもので、もう18年目に突入している。
 来月、ワイフの車が車検なので、整備工場へ予約の電話を入れておいた。同時に、サービスキャンペーンの部品交換もやってもらわなければならない。
 夜、ゼミをやるために、ミッシェルで本山へ行った。ミッシェルで本山へ来たのは久しぶりだ。駐車許可証が今月末で期限切れになることに気が付いた。また、申請書を出さなければ。
 今夜は、春の学会の予稿集用原稿の内容について、大野先生と相談した。
 結論は、昨年秋の予告に沿ってまとめようということになった。事例研究である。締め切りは来月の5日で、もうあまり時間がない。
 そして、予稿集用原稿を出すとすぐ、発表の準備と、投稿論文(日本語)の準備に着手する。この投稿論文(日本語)ができたら、今度はそれを英訳して、国際学会向けに投稿することになる。英語での発表は今秋である。
 学業に専念すればするほど、作家業の遅れで焦ることになる。
 超多忙で気が付かなかったが、大野先生からすごいことを聞いた。北野武(ビートたけし)が「コマネチ大学数学科」で2008年度日本数学会出版賞を受賞したのだという。24日、近畿大学での同学会の年会で授賞となる。なるべくニュースとして大きく取り上げて欲しい、と思う。

3月22日(土)「学業に専念するとエコノミークラス症候群・・・の風さん」
 たまった仕事を一気に片付けるための週末がやってきた。今週は、外は天気がいいが、自分は書斎で学業専念である。
 ……と言いながら、助走区間(やりたいことがトップスピードに達するまで)は、雑用をやったりする。ネットで閲覧できる動画をダウンロード保存できるフリーソフトがないかチェックしたら、見つかった(昔、入手したフリーソフトが機能しなくなったからやった)。海外のサイトで探して見つからなかったのが、国内のサイトにあったのだ。変な感じ。続けて、5月のジュンク堂池袋本店トークセッション向けのチラシ(案)を作成した。いつ催促されても対応できる。
 などなどやりながら、調子が上がってきたので、学業に着手した。5月の学会発表のための予稿作成である。しかし、その前に、データを作成しなければならない。生産システム評価シミュレーションの実施である。この仕事の分量がけっこう多くて手こずった。
 書斎でじっとしていると、ちょうど海外へ行くため長時間のフライトで、狭い座席に座っていて生じる症状と同じ現象が起きる。血流の悪化のための足のむくみである(老化現象もあるかも)。何度も椅子から立ち上がって、狭い室内をうろうろしたりすることになる。
 私が運動不足になっている間に、元気溌剌のワイフから、驚くべき報告。いつもトールペインティングをやっている庭のログキャビンの窓を、陽気がいいので開けようとしたところ、ハンドルをねじ折ってしまったという。恐るべき腕力である。カナダ製なので、修理に手間取りそうだ。やれやれ。
 そんなことがあっても、とにかく学業に専念。エコノミークラス症候群で足がむくんでも学業に専念。何をさておいても学業に専念。
 結局、午前1時までやったが、今日の目標のところまで届かなかった。

3月23日(日)「予稿ができない・・・の風さん」
 昨夜はあれからワインを飲みながらワイフと雑談していたので、就寝が深夜……じゃなかった未明になってしまった。それで、今日の起床は……正午直前(^_^;)。
 やばい! 学業を頑張らねば。朝昼兼用の軽い食事を摂って、書斎に籠もった。
 ひたすら生産システムシミュレーション作業に没頭。
 途中で、賞味期限切れの食品中心でコーヒータイムにし(賞味期限切れの食品の処理は、もっぱら私の担当。人生の後半戦に入っている人間は、まだ人生これからの家族よりも、この仕事に向いている)、またすぐ書斎に戻って続き。
 福島の兄貴が電話があった。脊柱管狭窄症の手術は大成功だったらしく、21日から元気に仕事に復帰しているそうだ。よかった、よかった。
 夕食も超特急で済ませて、また書斎に……でも、その前に、ワイフと政治談議。昨今のM党の行動は政治的な正義を実行しているわけではなく、優位な立場を利用したJ党に対するゆさぶりで、権力奪還活動に過ぎないと、自説を述べた。極端な比喩だが、幕末の薩長や公家の動きと似ている。時流に乗って先を読んだ駒の動かし方をすれば、勝負には勝てる。勝てば官軍のたとえ通り。正義は、勝った者が後からこじつけるのだ。ガソリンの売価が25円下がったら、J党にとって取り返しのつかない痛手になるだろう。100年後の歴史の解釈が楽しみである(もっとも私はもうそのときこの世にいないか……(笑))。
 結局、午後11時までやって、予稿作成を断念した。とりあえずデータ確保まで。
 そこから会社のサーバーにアクセスして、メールの処理。これに真剣に取り組むと夜が明けてしまうので、午前零時でおしまいにした。
 夕べの残りのワインを飲んで、ようやくベッドへ。就寝前に、『源氏物語』を少し読む。

3月24日(月)「天国から地獄・・・の風さん」
 朝、目が覚めたら雨の音。春先の天候は不順である。
 久しぶりに職場全体のミーティングに出席した。最近、色々とあって私は休みがちだった。トピックスをたくさん語ったあと、新刊、岩波科学ライブラリー『和算小説のたのしみ』が発売されることを皆にPRした。当然、サンプルを持参した。しかし、相変わらず、私の職場の反応はイマイチで、宣伝効果は薄そうだった。関東地区の文化レベルを100とすると、私の職場は1程度だろう。名古屋圏だからというのは理由にならない。近年、純文学系では、モノづくり同様に名古屋圏は元気だ。
 今日は次々に起きる会議に出席しているうちに日が暮れた。
 退社して外へ出ると、何となく生暖かい風が吹いていた。
 既に雨は上がっている。
 コンビニでEXパック500を購入して帰宅。
 新鷹会の懐かしい仲間から手紙が届いていた。何年ぶりだろうか。開封すると毛筆風の手紙が入っていて、読んで愕然とした。しばらく音信が途絶えている間に、仲間の生活が一変していたのだ。突如襲ってきた不幸に、それまでの幸福な暮らしが根底から覆され、大変な苦労をされてきたという。今は、比較的落ち着いておられるようだが、人生は何が起こるか分からない。家族全員が健康な、現在の私は、そういう意味で幸福そのものであり、贅沢はいけない、不平不満も一切言ってはいけない、と思う。しかし、すぐには返事を書けそうにない。私自身の心の動揺をおさめてからだ。
 それにしても私の『和算小説のたのしみ』は、いつ届くのだろうか。

3月25日(火)「焼肉パーティー・・・の風さん」
 昼休みに病院へ行ってきた。実は、入院して手術するかどうかの岐路に立っていたのだ。病名は恥ずかしいので今はヒミツ(笑)。検査と診察を受けた結果、仮に立てていた計画通りに入院・手術と決まった。明日、入院である。
 えー?っと驚かれるかもしれないが、驚いてもらうだけで十分である。特に心配はないので。
 そうと決まったら、仕事は中止だ(どういう理屈か、不明)。
 スーパーで焼肉用の牛肉を大量に買って帰宅。今日は、名古屋から長女が2ヶ月ぶりに帰省するのだ。
 うまい具合に長男も今夜はバイトがない。
 それで、家族5人そろっての焼肉パーティーに決めたのだ。
 帰宅したら、新刊、岩波科学ライブラリー『和算小説のたのしみ』もどっさり届いていた。すぐに販売や献本ができないのは残念だが仕方ない。
 焼肉パーティー開始前に、7冊目の著書出版を祝って、だるまに目を入れた。小説ではないので、今までで一番小さいだるまである。しかし、両目の入っただるまの数は、これで7個になった。
 今日の牛肉は、国産品、海外品、ステーキ用からカルビとバラエティに富んだ構成にした。例によって、私は貧乏性で、安目の肉ばかりつまんだ。変なのはワイフで、まるで子供のように上等の肉ばかり選んで焼いて食べていた。しかし、ま、とにかく、1.5kg近く用意したので、さすがに食べ切れなかった。この世の食べおさめとしての意味にもなったか(^_^;)。

3月26日(水)「直前になっても超多忙・・・の風さん」
 朝、病院から電話があって、入院は午後からと指示された。
 実は、今朝の午前3時まで、入院前準備をやっていたのだが、やるべきことがたっぷり残ったままだった。それで、朝から頭を抱えていたのだが、少しでも片付ける時間が確保できて、電話を受けながら、思わず「にんまり」してしまったのだが、その直後、ショックを受けた。個室が空いていないため、大部屋に入ってもらうと言うのだ。いちおう空いたら移れるようにしてくれるらしいが、大部屋では仕事ができないではないか!
 朝食後、せっせと仕事の片付けに入った。
 正午を回ったが、まだまだやることがたくさん残っている。当初、病室でやろうとたくらんでいたのだが、もしかするとできないかもしれないため、焦りまくってやったのだが……。
 今日も、外はよく晴れている。それを眺めても、気持ちはイマイチすっきりしない。やはり多忙過ぎるのか。
 次の気まぐれ日記更新は……4月になってしまいます。

3月27日(木)「手術とジェットコースターの関係・・・の風さん(1)」
 朝から天気は良いが、気分は低調。ジョットコースター待ちと同じである。世の中にはジェットコースターの好きな人がいて、その神経が理解できない。私は嫌いである。乗ると決めるのは自分の意志かもしれないが、乗った後の発進や加速、減速は相手任せである。自分の身体の調子に合わせてコントロールできないのが嫌なのだ。
 今日はそのジェットコースターに乗る以上の相手任せが待ち受けている。手術だ。だから、気分は最悪。肉体は正直なもので、検温では微熱を訴え、血圧測定では、普段コントロールされている範囲を逸脱した数値を表示する。
 手術というものは、これまで何度も経験している。むろん慣れているわけではない。
 そうではなくて、自分のこれまでの人生を振り返ってみたとき、案外、先手を打っているというか、判断に迷う場面で「GO」の決断をしていることが多い。
 高1の夏休み、右そけいヘルニア(脱腸ですね)の手術を受けた。放っておいて死ぬほどの病気ではない。スポーツに熱中していて不都合があったわけでもない。ただ、腹に力を入れたとき、右下腹がぷくりと膨れる違和感が気に入らなかったのだ。40年近い昔のことで、外科手術が現在と比べてどれだけのレベルにあったかは、想像していただくしかない。花も恥らう高1の風さんは、身体の中でも敏感な部位の手術に踏み切った。その結果は、現在の、かつての病気を忘れた生活にある。
 社会人になって緑内障が発見された。無知な風さんは失明するかと恐怖におののいた。幾種類かの点眼薬が処方されたが、効果が現れる反面、視力の低下に悩まされた。生活の支障も感じた。そのとき、医師から、当時まだ技術として確立していなかったレーザーを用いた手術を提案された。職場の先輩からは猛反対を食ったが、私の生き方は、こういう場合「GO」だった。そして、幸運にも、この手術の成果は、約10年後に、点眼薬も不要な普通の生活を私に与えてくれた。
 昨夜9時から絶食になり、今朝の11時からは水も禁じられた。その間に下剤と浣腸で、腹の中はスッキリしている。止血剤の点滴も始まった。昼過ぎになって、精神安定剤が投与された。薬のよく効く人だと、これだけで意識が朦朧としてくるらしいが、私は神経過敏なので、そんなことは期待できない。車椅子に乗せられてジェットコースター……じゃなかった手術室へ運ばれた。もう動悸が耳の奥で大太鼓を叩いている。きっと血圧は「測定不能」なほど跳ね上がっているに違いない。車椅子に乗りながら、心の中では、予定されていた痛み止めの筋肉注射がなかったじゃないか、と不信感も募らせている。
 総合病院の手術室は8つの部屋が左右に配置されていた。ガラス戸を開いて、その中の1室へ入った。ひんやりしていて明る過ぎる以外は、化学実験室のように機器が所狭しと並んでいる。しかし、中央で、とりわけ照明の明かりを集めて私を待っている手術台が、ますます私の意識を覚醒させた。
 脊髄に注射を打たれ、下半身麻酔が始まった。
 手術台に仰臥させられた私は、絞首台に引かれていく死刑囚が最後の抵抗を試みるように、泣き言を呟いた。
「あ、あのぅ……、硬膜外注射はしないのですか?」
 昨日の麻酔医の説明では、麻酔効果の持続時間を長引かせるために、硬膜外にも麻酔剤を注入し続けるとのことだった。
「やりません」
 そっけない返答が、臆病な私の耳朶を容赦なくかすめて行った。なぜ硬膜外麻酔が除外されたのだろう。事前の診察や採血、検温、血圧測定、既往症、あらゆるデータからの総合判定が、リスクのある麻酔行為を一つ一つ外しているのかもしれない。
 私はひどく落胆した。決して痛みが怖いわけではなく、この高ぶった神経を押さえるのにわずかでも効果がありそうなものには何でもすがりたかったのだ。
 そこへ、信頼している執刀医の優しい声が囁きかけてきた。
「眠りながら手術しますか?」
 当初シナリオになかった選択肢だった。しかし、これは天の声だった。私が切に望んでいた手術法だった。
「はい。お願いします」
 私はふるえる声で返事をした。
 直後、深い安堵感で、催眠薬の投与が終わるか終わらないうちに私は眠りに落ちた。

3月28日(金)「手術とジェットコースターの関係・・・の風さん(2)」
 手術直後から絶対安静で、ベッドに貼り付けられたようになっていたので、腰が痛くてかなわなかった。それが、一夜明けて、今日から食事や歩行もOKということで、朝食時に、先ず電動ベッドの背を持ち上げた。見える世界が広がって、実にすがすがしい気分だった。看護師さんにトーストパンを焼いてもらって、洋風の朝食を残さず食べた。完食である。
 ジェットコースターを乗り終えた風さんは、これからの入院生活に自信を覚えていた(しかし、まさかこの後も、つらいことがわんさと待ち構えているとは、このときは夢にも思わなかった)。
 昨日、手術台で声をかけられて目を覚ました風さんは、手術が無事に終わったことを知った。まさかの場合の用意をいくつか自宅に残してきたが、それらは、とりあえず不要になったのだ。
 まだ朦朧とした意識の私に、手術スタッフから声がかけられたが、キャスター付きのベッドに移されるとき、思わず「皆さん、どうもありがとうございました」と頭まで下げてしまった。変な(大袈裟な)患者だと思われたことだろう。
 ワイフが付き添っているベッドで病室まで運ばれた。止血剤の点滴に加えて、新たな管が下半身から伸びている。カテーテルである。
「3時間も待ったので、どうしちゃったのかと思ったわ」
「そんなにかかったの?」
 既に時計は午後5時を回っていたのだ。
「久しぶりによく寝た気がする」
「普段寝てないのだから、こういう時にしっかり寝ることよ」
「うん、そうする」
「とにかくよく頑張ったわ。あなたにしては上出来」
「手術は眠ったままやってくれたんだよ」
「本当?」
「ああ。執刀医の先生にも麻酔医にも、こういうことの前には血圧が跳ね上がって死にそうになる。ジェットコースターは大嫌いなんです……って、訴えていた真意が伝わったみたい」
「まさか……(笑)」
 その夜、面会時間が終了して、ワイフが帰ってから最初の問題が生じた。
 依然としてカテーテルからは赤ワインさながらの尿が、ときおりどす黒い澱(おり)も交えながら出ているのだが、その出が鈍っていた。同時に、膀胱の奥に疼痛も感じるようになっていた。午後10時過ぎだというのに、当直でもない執刀医が様子を見に来てくれた。案の定、膀胱内で血糊やかさぶたが溜まっていて、なんと、尿道口とカテーテルの隙間からかなりの出血もしていた。執刀医は膀胱内洗浄をし、カテーテルの具合を再調整してくれた。
 それが昨夜の事件だ。
 今日はワイフが、早くも朝食後にやって来た。
 早速社会復帰開始である。
「手伝ってくれ。顔を洗いたい」
 止血剤の点滴とカテーテルをぶら下げたサイボーグ状態では、部屋の中とはいえ、一人で歩くのは怖い。いちおう個室で、移動も苦にならない広さがあるのは、こういう場合ありがたい。
「大丈夫なの?」
 ワイフは、カテーテルを流れていく赤ワインのような尿を心配そうに見つめている。
「血尿が怖くて赤ワインが飲めるか!」
 うそぶく私は、ベッドから起き出した。
 洗面や歯磨き、髭剃りまで終えて、私の意識は高揚していた。
「これからはじゃんじゃん水分を摂って、手術の傷を治さなくちゃ」
 そけいヘルニアや緑内障のように、私が決断した手術は、HOLEPといって、レーザーを用いた前立腺肥大手術である。年をとると男がよくなるのが前立腺肥大だ。症状はオシッコの出が悪くなり、頻尿になったりと、色々ある。悪くすると他の臓器に悪影響も及ぼす。それほどのことがなければ、老人はおとなしく余生を過ごせばいいのだから、前立腺肥大と仲良くする手を選択でき、手術する必要はない。私も、他の臓器に悪影響が出ているわけではなかった。ただ、年齢的に若過ぎる発症が、私の場合、悩みの種となった。年齢50代は円熟の時代とかねて決めていて、知識・経験・意識が最高潮に達して最も充実して活動的な10年になると想定していたのだ。その人生設計に、この前立腺肥大は、厄介な障害となって目の前に立ちはだかったのだ。当初、薬で症状を抑えようと試みたが、この手強い敵に対するには副作用のきつい薬しかなく、1年以上の通院で、私の選択は手術へと大きく傾いて行った。さらに、インターネット上のHOLEPの高い評価が私の背中を押した。
 今日は、たくさんのペットボトルを用意して、水分吸収の準備もバッチリだった。
 当然のことながら看護師は24時間体制なので、次々に担当が替わる。夜勤は勤務時間が長くなかなかの激務である。昨夜の看護師から今日の看護師に引き継がれ、また今夜の夜勤の看護師にバトンタッチされた。その看護師が、ワイフが帰る前に、ガーゼ交換と一緒に、昨夜血まみれになっていた私のカテーテル周囲を洗浄してくれた。
 その一部始終をなぜかワイフが横で観察していた。
 処置後、ワイフが感想をひと言。
「へぇー、あんな太い管がよく入っているね」
 余計なお世話だ!
 
3月29日(土)「学会発表の準備ができない(泣)・・・の風さん」
 私の描いていたベストシナリオは、昨日で点滴が終わり、今日カテーテルが抜かれるというものだった。しかし、この思惑はあえなく消し飛んでいた。血尿がいっこうに沈静化しないからだ。そりゃそうだろう。空気にさらされている部分の傷と違って、相手は尿と常に接しているのだ。血小板は固まりにくくかさぶたも出来にくいだろう。
 それでも今日は、ワイフが来る前に、自分でベッドから抜け出して、洗面や髭剃りを済ませた。
 手術日の午前中にシャワーを浴びたのが最後で、サイボーグ状態から抜け出ない限り、シャワーも望めない。ワイフがやって来たのをこれ幸いと、洗髪室へ連れて行ってもらい、管をぶら下げたまま、洗髪してもらった。こういうのをやると気分がまたスカッとする。
 今日の看護師は若い男性だった。ワイフが帰った後、この看護師が私の出した尿を捨てた後、ユーバッグ(尿を入れる透明な袋)のドレンコックを閉め忘れたため、カーペットの床にしばらく私の尿が垂れ続けた。それに気付いたのが、夜勤の看護師だった。さすがに大量の止血剤点滴と一日1.5リットルの摂取水分のたまものだけあって、ユーバッグから垂れた尿は、普通の尿の匂いではない。どちらかといえば、血を水で薄めた液体なのだろう。異臭はじきに気にならなくなった。
 男性看護師が私のガーゼ交換をしなかったことに気付いたワイフから、夜勤の看護師さんにやってもらったら、という珍しく好意的な(?)メールがケータイに入った。恐らく、1日遅れの明日、カテーテル抜去になるだろうから、尿道口周囲は清潔な方がいい(私は直視する勇気がないが、ガーゼの下あたりはまだ血糊がこびりついているはずだ)。
 申し出たら、看護師が忙しい最中、丁寧にやさしく(痛くてごめんね、と声をかけてくれながら)ガーゼ交換してくれた。
 安心した私は、ここで無理をした。持参したアシュレイを取り出して起動させ、春季大会の前刷りの作成をしようとしたのだ。ところが、持参したUSBメモリ2個から、アシュレイにデータを移し替えようとして愕然とした。参考データはあっても、作成途中のデータだけがないのだ。忘れたに違いない。諦めてパソコン類を片付け、英語の文献を再読することにした。これらのことを2本の管をつなげたままでやっているのである。横で見ていれば鬼気迫るものがあったかもしれない。が、実は、そのとき、私の尻の下ではもっと恐ろしいことが起きていたのだ。
 土曜日なのに、今日も執刀医は私の様子を見に来てくれた。実にこまめに顔を出してくれる。医は仁術である、本当に。感謝。

3月30日(日)「男の悩みは男にしか・・・の風さん」
 入院病棟には日曜も休日もない。
 今日は朝からどんよりとした空模様で、午後は雨になるらしかった。
 何とか1日遅れの今日、カテーテルを抜去してもらいたい私は、目覚めてすぐ自分の身体から出ている管をチェックした。
 がーん! 尿が赤い。しかも、動きが停滞しているように見える。5時に起床した私は、とにかくベッドから起きだして、部屋の中を歩き回ってみた。そして、洗面などを済ませてカテーテルを再びじっくり観察すると、少しだが尿は出ているようだった。今度は、私は、ベッドに安静になり、ドリンク類をがぶ飲みし始めた。待つこと1時間、次第次第に尿の量が増え、色も薄くなってきた。
 医師の回診がある頃には、尿の色はすっかり薄くなり、ユーバッグにはあふれるほど溜まっていた。
 医師は抜去を決め、膀胱洗浄を繰り返した後、とうとうこの厄介な長期滞在者を私の身体から外してくれた。もちろんこのプロセスの間、何度も痛みが身体を貫いたが、たまには強がりを見せようと決めていたので、今日は弱音を吐かなかった(偉い!)。
 11時半にカテーテルは私の身体から去ったが、まだ血尿が多いという医師の判断で、止血剤の点滴は今日いっぱい継続となった。
 それにしても、手術以来垂れ流し状態だったのに、これから正常な放尿ができるのだろうか。私の不安と疑問は、私の頭上に嵐のような黒雲で垂れ込めている。しかし、この質問に対して、医師も看護師も「自然にできますよ。でも、当分血の塊が出たりしますけど、驚かないように」と言うばかりだった。
 すぐに昼食になり、それが終わるころ、医師が早くも顔を見せた。
「どうです? 出ましたか?」
 こんなに早く出ると思わなかったので、私は「まだです」と言いながら、日曜日にも勤務している医師に対して何となく申し訳ない気がした。それで、医師が病室を出て行ってすぐ、若干の尿意を覚えたこともあって、「出してみる」とワイフに告げた。
 そして、点滴スタンドを引きづりながら、トイレに入って、下着を下ろしたとたん、床に鮮血がぽたぽた落ちた! 出た! とにかく出たのである。出した場所は外れたが(笑)。
 明るい看護師が喜んでくれて握手してくれた(ワイフが横でにらんでいたらしい)。
 その直後、義父が見舞いに来てくれた。
 続けて、陶芸家の知人が、わざわざ私の病室を尋ねてまで、そして作品を持参して、来てくれた。
 二人に、手術前の症状を話したら、年齢こそ違え、似たような症状を抱えていることが分かった。
「自宅にいるときは、便座に座って、時間をかけてやるようにしている。そうすれば、ズボンを汚すこともないし……」
 なーんだ、皆、同じ事をやっているんだ。
 私は、ワイフに、「なかなか女性には語れない悩みなんだよ」と言ったが、ようやく亭主の苦しみの一端が理解できたのではないだろうか。
 この病院では、毎週3人くらいが前立腺肥大手術を受けているそうだ。
 そのような背景もあったので、今回の入院・手術では、周囲に詳しい話はしていないし、話した相手にも見舞いは不要と告げてあった。人生哲学を語る代わりに「一種の美容整形だから」と自分でも言い得て妙だと思う説明もしてあった。
 夕方、雨の中、名古屋で働いている長女が予告もなしに見舞いに来てくれた。
 入院日に一緒に来て、カテーテルが抜けた日にまた来てくれたので、この数日間の悪戦苦闘を語った。忙しい長女が持参したケーキを食べて、今日は実に充実した日だった……と書いて終わればそれまでだったが、実際は違った。
 実は、わずか数日の闘病生活の間に、私のお尻にはひどいオムツかぶれができていたのである。今日の午後、医師に薬を処方してもらったのだが、ワイフはその薬を自分で塗る、看護師にはやらせないと主張して譲らない。亭主の威厳を守りたい私としては、ひどいオムツかぶれをワイフに見せたくなく、さらに男の本音として、これは医療行為であると建前を言い張りながら、若い女性看護師にやさしく薬を塗ってもらいたかった(笑)。
 結局、私は亭主の威厳を捨てた(安い威厳だね、まったく)。
「こりゃ、ひどい。どうしたらいいの?」
「自分でやるって言ったろ?」

3月31日(月)「再びアシュレイを起動させた風さんの巻」
 昨夜から熱が出た。夜勤の男性看護師に氷枕を借りて寝たが、寝付けない。カテーテル抜去後、1〜2時間おきにトイレに立つ。血尿が出て、その後、尿が漏れる(つまり失禁状態)ので、ガーゼを当てて出てくる。オムツかぶれも猛烈に痒いので、狂ったように塗り薬をすりこむ。そんなことを繰り返している間に午前4時になった。ふと気が付くと、男性看護師が知らない間に布団をかけてくれていた。それからようやく少し眠れた。
 こういう場合、病室は個室がいい。孤軍奮闘が思う存分にできる。
 部屋の明るさや空調も、そのときの気分や体調でこまめにいじれる。
 花粉症のこの時期、大部屋の相方がエアコン嫌いで外の空気を入れたら大変だった。
 今朝は熱は下がったが、血圧は依然として高い。尿の色はまだ赤く、漏れも続いている。オムツかぶれだけは、かなり楽になった。
 執刀医がちょっと顔を見せてくれたが、明日の退院は予告してくれなかった。
 会社の同僚に近況をメールした。皆が頑張ってくれているので、私はこうして自分勝手な人生哲学を押し通していられるのだ。
 気分をスッキリさせたくて、朝食後、シャワーを浴びることにした。
 昼食にかなり厚いとんかつが出た。前回の精密検査以来、病院食は残らず食べている。完食が続いている。きっと退院まで完食をやり遂げるだろう。入院初日以来、久々に自分でお膳を片付けた。
 カテーテルと点滴が外れたので、病室に看護師が点検にくる機会が一気に減ってしまった。寂しい。定年退職後の男の悲哀と似ている(笑)。
「さて、と」
 学会発表の準備はできないが、それ以外にやれることをやろう、と思い、私は、カバンからアシュレイを取り出して、起動させた。
「先ずは、気まぐれ日記だ」
 月があらたまるので、すぐに別ページへ保存されるだろうが、しっかり書いておこう。一部のファインのために。

08年4月はここ

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